心と脳の世界から生きる事に優しくない社会にむけて

心と脳の世界から生きる事に優しくない社会にむけて

天城北都の執筆した小説に関して紹介・補完するサイト

北城(きたしろ)のWho am I テスト

北城(きたしろ):主人公。科学部。文化系クラブ代表。超常現象否定派。虐待サバイバー。攻撃的アダルトチルドレン。プチ反出生主義者。反権威主義。学園成績次席。理系だが、社会問題全般にくわしい。その性格から『怒れる科学者』とあだ名される。

天童(てんどう):北城の幼なじみ。占い・おまじない好き。虐待サバイバー。自罰的アダルトチルドレン。友愛がモットー。幸せな家庭を夢見る。北城と他生徒を取り持つ姿勢から『忍耐の聖女』と揶揄(やゆ)される。

Who am I ? わたしはだれですか?

北城「僕は、肉、すなわち、有機化合物の『かたまり』だ」

天童「ええっと、キタちゃん、・・・?」

北城「何だ?」

天童「うーん、その自己紹介はないんじゃない、かな?」

北城「何がだ? 肉-有機化合物の詳しい成分が必要か?

 それとも『かたまり』の詳しい構造か?

 だが、僕は理科で生物を選択していないから、これ以上の説明は力不足だ。

 ・・・悔しいが」

天童「・・・くやしいんだ。

 ええっと、そうじゃなくて、もっと中身の話をしない?」

北城「・・・中身? さっきも言ったが、成分や構造についてはこれ以上・・・」

天童「そうじゃなくて! 物質的なことじゃなくて!

 ・・・内面の! そう、物質じゃなく精神的なこと、『心』なんかについて自己紹介すれば良いと思うよ!」

北城「『心?』」

天童「そう、『心』! キタちゃんの内面についての自己紹介だよ!」

北城「だが、僕は『心』なんか実在しないと思っているぞ」

天童「えっ?」

北城「『心』は『脳』の見せる幻、だ。『心』は人間の生み出した妄想に過ぎない」

天童「ええっと・・・。そうなんだ」

北城「ああ、『心』は人間がねつ造した妄想だ。実在しない。

 『心』はわかりやすく例えるとTVの中の世界と同じだ。

 TVは様々な存在しない世界を映すことができる。

 そして、TVの原理を知らない人間からすれば、TVの画面の中に小さな小人が住んでいて中で動いていると錯覚させられる。

 だけど、TVの画面を割っても、そこにはTVの中の世界は存在しない。

 様々な回線が並んでいるだけ。回線が見せた幻にすぎない。

 それと同じことが『心』に言える。『心』は生きた機械である『脳』が見せる幻の世界にすぎない。」

天童「・・・」

北城「・・・その様子だと納得していないな。

 良いだろう。もう少し具体的に考えてみようか。

 そうだな、テーマは『自殺衝動』にしてみるか?」

天童「・・・『自殺衝動』?」

北城「そうだ。『自殺衝動』だ。

 例えば仮に、30階建てのビルの屋上で火災にあい、火から逃れるために屋上から飛び降りて自殺したとする」

天童「それは自殺じゃないよ! 自殺なんていったらダメだよ! 被害者に失礼すぎるよ!」

北城「うん、言いたいことはわかる。

 だが、全ての自殺はこれと同じケースで説明できる」

天童「・・・え?」

北城「全ての人間、いや、生物には生まれつき『生きようとする本能』がそなわっている。

 さっきの例で言えば、火から逃れようとした行為が、それだ。

 生きるための本能。危険から遠ざかろうという本能、だ。

 そして、その観点から言えば『火から逃れる行為』は、その本能のあらわれにすぎない。

 決して、死のうとしたわけじゃない。逆に生きようとして屋上から飛び降りたと言える。

 生きようとする行動。『生きようとする本能』のあらわれだ」

天童「・・・うん」

北城「そして、それは全ての自殺に、当てはまる。

 人間の身体には様々な苦痛を感じる機能がそなわっている。

 それは別に人間を苦しめるためにあるわけじゃない。逆に人間を生かすためにそなわっている。

 炎に焼かれる痛みも、暴力から受ける苦痛も、イジメなどから感じる苦しみも・・・。

 それら全ては生きるために人間にそなわっている、危険回避のためのシステムだ。

 それらのことを理解すれば、死のうとして自殺した人間なんて、この世に存在しないことがわかる。

 イジメを苦に自殺した人間は、死のうとしたわけではなく、生きるためにイジメから逃れようとしたにすぎない。

 炎から逃れるように。『生きようとする本能』にしたがって。

 その行動の結果が自殺だということは悲劇であるが。その責任はイジメを野放しにしている社会にある。

 決してイジメで自殺した被害者の『罪』ではない。

 そして、ありとあらゆる自殺が、ソレに該当(がいとう)する。

 人間はいかなる時も『生きようとする本能』にしたがっている。

 身体にそなわった『生きようとする本能』に。

 そこから逃れることは理屈の上で不可能だ」

天童「・・・」

北城「しかし、ソレを理解できない人間が存在する。

 その理解の妨げになっているのが、人間の『心』という、妄想だ」

天童「・・・『心』?」

北城「『心』を信じる人間は、自殺者の行動から『死のうとする意志』を妄想する。妄想してしまう。

 そして、その『心』を善悪で裁こうとする。

 しかし、そんなモノは実在しない。

 人間は全て『生きようとする本能』にしたがって行動している、だけだ。

  どのような複雑な自殺の動機も『生きようとする本能』の積み重ねにすぎない。

  なのに、存在しない『心』をTVの画面を割るように取り出して裁こうとする。

 それは愚かで悲しい誤解だ。 人間は『生きようとする肉のかたまり』でしかない。

 他の動物で考えてみれば、よくわかる。

 例えば、レミング集団自殺など研究する際に、そこに『心』を持ち出す科学者なんて存在しない。

 どんな科学者もレミングの中に、自殺しようとする『心』を見いだしたりしない。

 あれはあくまで『本能』のなせるわざだ。だから、どのような『本能』なのかを研究する。

 なのに、人間に対してだけは『本能』を除外し、『心』を持ち出す。

 人間は『本能』に縛られる生き物ではない。『心』をもった生き物だ。『心』で行動する生き物だ。…etc

 人間だけが特別な生き物だという思い上がり。それが人間を真実から遠ざけてしまう。

 その最も代表的な例が『心』の存在だと僕は考える」

天童「・・・」

北城「よって僕は宣言する。人間に『心』など存在しない。そして、死にたくて死ぬ自殺者も存在しないと。

 全ては生きるための選択だと。自殺者は死を選んでいるのではなく、最後の最後の瞬間まで生を選んでいる。

 自殺者に罪はない。責められるべきは自殺者の『心』ではなく、その行動をくみとれない『生きる事に優しくない社会』の方だ。

 自殺(安楽死尊厳死を含む)は『生きようとする本能』のあらわれであり、広義の意味で、生きることを選択した結果だ。

 それを問題視するなら『生きる事に優しくない社会』を問題視しろ。

 それが本当の意味での自殺対策だ。自殺とは社会による殺人にすぎない。

 それが科学者としての、科学的な、自殺(安楽死尊厳死を含む)に対する見解だ」

天童「・・・うん、わかったよ」

北城「わかってくれたか」

天童「うん。変則的だけど、キタちゃんがどんな人間かは、今までの会話で伝わったと思うから。自己紹介成功だね(笑顔)」

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